最近、Xで「子どもの体験格差」についての投稿を見かけました。
旅行。
習い事。
テーマパーク。
キャンプ。
イベント。
博物館や水族館。
たしかに、家庭の経済力や親の時間、住んでいる地域によって、子どもが経験できることの幅は変わると思います。
これは、きれいごとではなく、あると思う。
親の気合いだけでどうにもならないこともある。
チケット代も交通費も、ちゃんと財布に攻撃してくる。
しかも家族分。強い。とても強い。
でも一方で、休日にお弁当を持って近所の公園へ行くことや、家で一緒に料理をすること、道ばたの虫を見つけてしゃがみ込むことだって、子どもにとっては大事な体験かもしれない。
じゃあ、結局何が大事なんだろう。
そんなことを考えました。
この記事では、体験格差について、私なりに考えたことを書いてみます。
「お金をかけられない家庭はだめ」でもなく、
「高価な体験なんて意味がない」でもなく。
高価な体験も、日常の小さな体験も、どちらも下げずに考えたいです。
体験格差は、たしかにあると思う
まず、子どもの体験格差はあると思います。
お金があれば、選択肢は増えます。
旅行に行ける。
習い事を試せる。
テーマパークに行ける。
遠くの博物館や水族館に行ける。
キャンプ用品をそろえられる。
イベントに参加できる。
もちろん、全部の家庭が同じようにできるわけではありません。
親の仕事の都合もある。
下の子が小さくて動きにくいこともある。
車がないと行きにくい場所もある。
そもそも体力が残っていない日もある。
「行けばいいじゃん」で済むなら、誰も悩まない。
行くまでの準備、移動、現地での子どもの機嫌、帰宅後の洗濯物。
体験の裏には、だいたい親の段取り労働が山盛りで付いてくる。
楽しい思い出の背景で、親は見えないところでめちゃくちゃ運搬している。
荷物を。
予定を。
子どもの機嫌を。
自分の眠気を。
だから、体験格差を
「親が頑張ればどうにかなる」
だけで片づけるのは、少し乱暴だと思います。
実際、国立青少年教育振興機構の調査でも、公的機関などが行う自然体験活動に小学生が参加しない理由として、世帯年収が400万円未満の家庭では、経済的・時間的な負担が多く見られたとされています。体験の機会は、家庭の状況と無関係ではないのだと思います。
なので、まずは
「体験格差はある」
という前提から考えたいです。
なかったことにしない。
でも、そこで終わりにもしたくない。
はねママ家族分のチケット代、普通に強敵です。
財布のHPがごっそり持っていかれる……
体験活動には、子どもの成長につながる面がある
体験が大事だと言われるのには、ちゃんと理由もあるようです。
文部科学省は、体験活動について、豊かな人間性や自ら学び考える力など、「生きる力」の基盤や、子どもの成長の糧としての役割が期待されていると説明しています。現実の世界への興味関心、問題解決能力、社会性、自尊感情などにも関わるとされています。
また、国立青少年教育振興機構の調査では、自然体験・生活体験・文化芸術体験が豊富な子どもや、お手伝いを多く行っている子どもは、自己肯定感が高く、自立的行動習慣や探究力が身についている傾向があるとされています。
もちろん、これは
「旅行にたくさん行かせれば必ずすごい子になる」
という話ではないと思います。
体験が多い子に、そういう傾向が見られたということ。
でも、子どもがいろんなものを見たり、触れたり、やってみたりすることには、やっぱり意味があるんだなと感じます。
知らない場所に行く。
初めてのものを見る。
自分でやってみる。
失敗する。
びっくりする。
「もう一回やりたい」と思う。
そういう積み重ねが、子どもの中に少しずつ残っていくのかもしれません。
だから私は、
「小さいうちはわからないから、公園だけで十分」
とも言い切りたくないです。
わからないように見えても、何かは残っているかもしれない。
言葉にできないだけで、においとか、音とか、親の表情とか、手をつないだ感じとか。
子どもの記憶、たぶん親が思っているより変なところに保存されている。
「そこ覚えてるの?」みたいなこと、急に言いますよね。
こっちは大きなイベントのつもりだったのに、子どもが覚えているのは帰りに買った肉まんだったりする。
それも体験。
肉まん、強い。
でも「お金をかけた体験=良い」「公園=足りない」ではない


ただ、体験が大事だからといって、
「お金をかけた体験ほど価値がある」
という話にはしたくないです。
高価な体験には、高価な体験のよさがあります。
旅行先で知らない景色を見る。
博物館で本物に触れる。
テーマパークで非日常を味わう。
習い事で新しい世界を知る。
それは確かに、子どもの世界を広げると思います。
でも、近所の公園で毎回同じすべり台をすべることや、スーパーで好きな野菜を選ぶことや、家でクッキーを焼いて失敗することも、子どもにとってはちゃんと体験です。
大人から見ると、
「また公園?」
「また砂場?」
「またダンゴムシ?」
と思うこともあります。
でも、子どもにとっては毎回ちょっと違うのかもしれません。
今日は枝がある。
今日は昨日と違う石がある。
今日はダンゴムシが丸まった。
今日は滑り台の下に誰かの忘れ物の葉っぱがある。
地味だけど、本人の中ではけっこう事件。
大人にとっては「いつもの公園」でも、子どもにとっては毎回、微妙にアップデートされた世界なのかもしれません。
しかも公園はすごい。
走る。
登る。
転ぶ。
順番を待つ。
知らない子を観察する。
虫を見る。
葉っぱを拾う。
帰りたくないと揉める。
最後だけちょっと余計ですが、これも含めて体験です。
親の忍耐力も同時に育つ。育ちすぎる日もある。



ダンゴムシを見つけただけで大事件になる年齢、ちょっと羨ましいです。私も子供の頃はダンゴムシで喜んでたな~。
子どもに残るのは、体験の“値段”だけではない気がする
子どもに残るのは、どこへ行ったかだけではない気がします。
その時、親が自分の方を見てくれたこと。
「楽しかったね」と言ってくれたこと。
失敗しても怒られなかったこと。
自分の「やってみたい」を少し受け止めてもらえたこと。
たぶん、体験の中身だけではなくて、
その体験にどんな空気がくっついていたか
も大きいのだと思います。
旅行に行っても、親がずっとイライラしていたら、子どもは楽しいより緊張を覚えるかもしれない。
近所の公園でも、親が一緒にしゃがんで
「この虫なに?」
「葉っぱ大きいね」
「おにぎり外で食べるとおいしいね」
と言ってくれたら、それはかなり豊かな時間かもしれない。
もちろん、毎回そんな丁寧な親ではいられません。
公園で葉っぱを見つけた子どもに、
「すごいね〜」
と言いながら、内心では
「帰ったら米炊かなきゃ」
と思っている日もあります。
あります。
親の脳内は常に複数タブが開いている。
でも、全部完璧に付き合わなくてもいいと思います。
一瞬でも見る。
一言でも返す。
少しだけ一緒に笑う。
それだけでも、子どもにとっては
「自分の見つけたものを一緒に見てもらえた」
という体験になるのかもしれません。
体験の値段より、
「安心して試せたか」
「楽しかった気持ちを誰かと分けられたか」
「自分の興味を見てもらえたか」
そこも大事にしたいなと思います。
「わからないうちは公園で十分」とも言い切りたくない


一方で、
「小さいうちはどうせ覚えていないから、公園で十分」
とも言い切りたくありません。
公園は素晴らしい。
かなり助かる。
でも、公園だけが正解ではない。
子どもが小さいうちでも、いろんなものに触れることには意味があると思います。
水族館に行ったら魚が好きになるかもしれない。
コンサートに行ったら音に興味を持つかもしれない。
キャンプに行ったら虫が無理だと判明するかもしれない。
博物館に行ったら、恐竜より売店のキーホルダーに夢中かもしれない。
それも含めて、知ること。
好きになるかもしれない。
怖がるかもしれない。
意外と興味を示さないかもしれない。
やってみないと分からないことは、たしかにあります。
だから、できるならいろんな体験をさせてあげたい。
この気持ちは、すごく自然だと思います。
でも、できない日があることも、責められるものではない。
遠出できない時期もある。
お金をかけられない時期もある。
親のメンタルが公園30分で限界の日もある。
そういう時に、
「体験させなきゃ」
が親を追い詰める言葉になってしまったら、ちょっと苦しい。
子どもの世界を広げたい。
でも、親がつぶれるほど背負わなくていい。
その両方を持っていていいのだと思います。



「いろんな体験をさせたい」と「今日はもう無理」は、普通に心の中に同居します~。
わが家で考えたい「体験」の幅


体験というと、大きなおでかけを想像しがちです。
でも、わが家ではもう少し広く考えたいなと思っています。
たとえば、
- いつもと違う公園に行く
- 図書館で好きな本を選ぶ
- スーパーで野菜を一緒に選ぶ
- 家で料理を手伝ってもらう
- 電車やバスに乗る
- 季節の花や虫を見る
- 家で宝探しをする
- 雨の日に水たまりを見る
- 地域の無料イベントに行く
- 祖父母や親戚と過ごす
- 親の好きな音楽を一緒に聴く
こういうのも、ちゃんと体験だと思います。
特別なおでかけだけが体験ではない。
日常の中にも、子どもにとっては初めてのことがたくさんあります。
初めて卵を割る。
初めてトマトのヘタを取る。
初めて自分で券売機を見上げる。
初めてバスのボタンを押す。
初めてお店の人に「ありがとう」と言う。
大人からすると小さいことでも、子どもにとってはけっこう大きい。
国立青少年教育振興機構の調査でも、自然体験だけでなく、生活体験や文化芸術体験、お手伝いなども子どもの自己肯定感や探究力などと関係している傾向が示されています。体験は、遠くへ行くことだけではなく、暮らしの中にもあるのだと思います。
わが家でも、子どもが料理を手伝いたがる時があります。
正直、親としては疲れます。
レタスをちぎるだけのはずが、なぜか床に小さな森ができている。
卵を割るだけのはずが、こちらの緊張感がすごい。
ミニトマトのヘタ取りも、途中から選別作業員みたいな顔でやっている。
でも本人は、かなり誇らしそう。
こういう日常の体験も、子どもの中に残っていくのかもしれません。
親が穏やかでいられる範囲で、体験を選んでいい
体験格差の話を見ていると、つい
「もっとやってあげなきゃ」
と思ってしまいます。
でも私は、親が穏やかでいられる範囲で体験を選ぶことも大事だと思っています。
無理して遠出して、親がずっとイライラしているなら、近所の公園でお弁当のほうが平和な日もある。
逆に、親も楽しめるなら、旅行やイベントに行くのもすごくいい。
大事なのは、体験のランクではなく、親子にとって無理が少ない形を選ぶことなのかもしれません。
もちろん、毎回穏やかではいられません。
おでかけ前に靴下で揉める。
現地でトイレを探す。
帰り道で「まだ帰らない」と言われる。
家に着いた瞬間、親だけ魂が抜ける。
体験活動、現実はけっこう泥くさい。
でも、その泥くささも含めて、家庭ごとの形があっていいと思います。
今日は公園。
今日は家で粘土。
今日は図書館。
今日は思い切って水族館。
今日は無理だから動画とおにぎり。
全部あっていい。
できる時に、できる範囲で、子どもの世界を少し広げる。
それくらいでいいのではないかなと思います。



親が穏やかでいられる範囲、大事!親の心が荒天の日に遠出すると、全員びしょ濡れになる……
まとめ|体験格差を、責め合いではなく選択肢の話として考えたい


子どもの体験格差は、たしかにあると思います。
それを
「愛情があれば大丈夫」
だけで片づけるのは、少し乱暴かもしれません。
お金や時間があることで増やせる体験は、確かにある。
旅行や習い事、イベントや文化的な体験が、子どもの世界を広げることもある。
でも同時に、体験の価値をお金の大きさだけで決めるのも違う気がします。
高価な体験もいい。
日常の小さな体験もいい。
どちらかを下げなくていい。
子どもにとって大事なのは、安心して試せること。
見てもらえること。
楽しかった気持ちを一緒に味わえること。
失敗しても大丈夫と思えること。
そして、できる範囲で少しずつ世界を広げていくこと。
体験格差の話は、親を責めるためではなく、子どもの選択肢をどう増やしていけるかを考える話であってほしいです。
家庭でできることもある。
地域や社会で支えたほうがいいこともある。
親だけで全部背負わなくていいこともある。
わが家も、できる時は少しだけ新しい体験を。
できない日は、いつもの公園や家の中の小さな発見を。
そんなふうに、無理なく子どもの世界を広げていけたらいいなと思います。
子どもに残る体験が、値段だけで決まるわけではない。
でも、選択肢を知る機会は、できるだけ増やしてあげたい。
その両方を、私は大事にしていきたいです。
参考リンク
- 文部科学省「体験活動の教育的意義」
体験活動は、豊かな人間性や自ら学び考える力などの「生きる力」の基盤、子どもの成長の糧としての役割が期待されていると説明されています。 - 国立青少年教育振興機構「過去の調査研究」
自然体験・生活体験・文化芸術体験が豊富な子どもや、お手伝いを多く行っている子どもは、自己肯定感が高く、自立的行動習慣や探究力が身についている傾向があると紹介されています。 - 文部科学省「青少年の体験活動等に関する意識調査(令和元年度調査)」
社会経済的背景の相違に関わらず、自然体験が多い子どもほど自己肯定感が高く、自立的行動習慣が身についている傾向があることや、世帯年収400万円未満の家庭では自然体験行事への参加に経済的・時間的負担が多く見られたことが示されています。
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